昨日母と、母のお正月の一人用おせちを買いに行きました。
芦屋大丸の『西大和さえき』で、とても美味しそうな一段のお重があり、
それを予約しました。
(👆ここに載っている品を、少しづつ入れた一人用が店頭で予約出来ました)
それと我が家用の数の子を、母につけてもらおうと買いました。
今年は、お正月の用意はこれでおしまいです。
我が家も、数の子と岸澤屋の黒豆、とり松のおぼろの入ったばら寿司を作って、
最後にお雑煮を食べて、それで良しという事になりました。
寂しいですが、来年に今年の分も出来る様に、母には元気でいてもらいましょう。
昔から使っていた本を開けると、このメモが出てきました。
昭和42年12月とあります。1967年です。姉は12歳。私は10歳です。
私達が戦力になる年ごろではありません。
唯一私が好んで手伝っていたのは、菊花かぶらを作るのに、
お箸を2本引いて、包丁が下までいかないようにすることぐらいでした。
すごいですね。母達の年代の主婦は。これだけの品を一人で作っていたのですから。
「3日前から数の子をつけ始めたりしていたからねぇ。忙しかったわよ」と、
母は言います。
「何か、1㎏買ってたのよね?なんだったかしら?」と母は考えています。
母は忘れたようですが、それは、肉団子用の合挽き肉です。
昨日のブログの今年のおせち👇にも入っていたでしょ。
我が家は、この母の作る肉団子が大好きなのです。油であげて、
甘酢出汁を絡めているのです。
「ひき肉が安かったからね」と、母は笑います。
そして、もう一つの定番が👆この『ぶりのつけ焼き』です。
これが実家の、年末の大行事だったのです。
父はこの頃、宮崎と神戸で旅行代理店を経営していて、
いつ頃からかは覚えていませんが、
宮崎から神戸への年末最終便のカーフェリーで、
🚤フェリー会社から、お歳暮の🐟ぶり1匹運ばれて来るのです。
そのぶりを、父と私は神戸のフェリー乗り場まで受け取りに行き、
父が、家のベランダでそれをさばくのです。
それを切り身にして、母がつけ焼きにしていました。
今は、ぶりを柵で買ってきて、小さめに切り、つけ焼きにします。
大きめに切ってしまうと、私達女性陣が落ち着いて食べようとすると、
もうお重の中には残っていないのです。皆大好きな1品なのです。
母は、自分の書いたメモをまじまじと見ながら、
「この頃は私、字が上手いわねぇ。今はもうこんなふうに書けないわ」と、
嘆きます。
私から見るとそんなことはないし、ケアマネさんにも
「筆圧もちゃんと入って、しっかり書けていますよ」と言って頂いています。
でも、自分からすると納得いかないのでしょうね。
字が思うように書けなかったり、瓶やペットボトルが開けられなかったり、
タオルをしっかり絞れなかったり、母には情けないことが多くなりました。
自分のおせちのメモを見ながら母は何を思うのでしょうね。
私は、母のメモを見ながら、10歳の私は何を考えていたのだろうと記憶をたどります。
はっきりとはわかりませんが、ベランダでぶりを捌く父と、
台所で忙しく動く母を見ながら、きっと幸せな時間を過ごしていただろうと
思います。