満開だった芦屋川の桜も今はほとんど散ってしまいました。
温かい日が続いた後、少し肌寒い日が戻って来ていますね。
冬のアウターをまだクリーニングの出さなくて良かったと思っています。
今日は、母のふるさと宮崎の果物の話を少ししたいと思います。
宮崎は2007年に東国原英夫さんが宮崎県知事に就任され、
彼の功績で全国区になった果物が2つあります。
🥭マンゴーと、金柑です。その果物にまつわるお話をしたいと思います。
まず、🥭マンゴーの話から…
かつて毎年両親の家に、宮崎の伯父からお中元に
マンゴーが送られて来ていたのですが、東国原さんが売り込んでくれたお陰で、
宮崎マンゴーは有名になりブランド化され、値段が急に高騰しました。
その為、それまでは伯父から🥭🥭2個送られて来ていたのが、
🥭一個しか送られて来なくなりました。
一つではなかなか我が家にはお裾分けが無くなり、
送られて来た時偶然そこに居合わせないと、(;O;)私達の口に入らなくなりました。
今は父も亡くなり、その伯父も亡くなり、
もう🥭マンゴーが宮崎から送られてくる事はなくなりました。
最近はマンゴーも少し安くなり、沖縄や石垣島のマンゴーも大変美味しく、
夏になると、たまにマンゴーを買って食べるようになりました。
次は金柑の話です。
宮崎に今も残る父の生家の庭には、
以前そこを管理していて下さった、おばさんが育てていた金柑の木がありました。
その木は毎年立派に実をつけて、私達が夏に遊びに行くと、
おばさんは、袋一杯の金柑を持って来て、そのまま食べるように勧めてくれました。
本当は生で食べる習慣のなかった私達はちょっと苦手でしたが、
嬉しそうに持ってくるおばさんにそれが言えず、仕方なく口に入れていました。
そして、おばさんは金柑のジャムを作っては両親の家に送ってくれていました。
ところが、これも東国原さんのお陰で、『完熟きんかん(たまたま)』として、
ブランド化され、高級品になってしまいました。
その頃からおばさんは盗まれまいと、木に網を掛けて大事に育てるようになりました。
母の家にも、あまり金柑シャムが送られてくることが無くなりました(^▽^;)
このおばさんも母より年上でしたから、私達が宮崎に行っても
最近は姿を見ることがなくなり、どうしていらっしゃるかわかりません。
金柑の木も今はありません。
今日のブログを宮崎のフルーツの思い出にしたのは、
今晩のサラダに、これも宮崎の果物、日向夏を使ったからです。
最近はどこででも売られていますが、私の子供の頃は近所では見かけませんでした。
父はこれが好きで、仕事で行く宮崎空港で良く買って帰って来ていました。
父は苺のように、お砂糖をかけて食べていました。
私はサラダに入れるのが好きで、特に新玉ねぎに合わせて食べます。
私が日向夏を剥いている横で、
😋「懐かしいわねぇ。昔よく食べたわねぇ」と母は言います。
私が「小さい頃から食べてたの?」と聞くと、
🙄「そうよ、7人兄弟だったから、食事を作るのが大変だったのよ」
"(-""-)"「お母さんが作ってたんじゃないんでしょ⁉」
😐「まあ…そうだけどね…」
と、こんな訳の分からない事を言っている母の方を見ると、
剥いてお皿に乗せている日向夏にフォークを突き刺して口に運んでいます。
(; ・`д・´)「もう!まだ食べないでよ!」と私がおこると、
🤗「美味しそうだから、ちょっとお味見」と、いつものセリフ。
「昔から食べてるのだから、お味はご存じなのでは…」(+_+)
コノシロはキュウリと酢の物にしようと思いましたが、
母がこのまま食べたいと言うので、お皿に並べました。
豚のしょうが焼きに、ナス、ズッキーニ、ブラウンマッシュルームともやし。
少し数の減った(数個はすでに母のお腹の中)日向夏のサラダです。