with age 92歳の母のぼちぼち介護日記

母の介護を通して、素敵な歳の重ね方を学びます。

ててかもイワシ

私がこのブログを始めるにあたって、
どうしても書きたかった方の事を書きます。

その方は、私が傾聴ボランティアで伺う施設に、お住まいでした。
かなり認知症がすすんでいましたが、
とても大人しく、職員さんの手を煩わせることもなく、
窓際でいつも静かに車椅子に座っていらっしゃいました。

毎回こんなお話をしてくださいました。

「Oさん、こんにちは。初めまして。〇〇といいます。
今お話を聴かせて頂いてよろしいでしょうか?」

「いいですよ。君はどこから来たの?」

「ここから近い所に住んでいるんですよ」

「そう。僕はね芦屋から来たの」

「そうなんですね。ご出身はどちらですか?」

「戦後、沖縄から丁稚奉公で芦屋に来て、
 芦屋駅の北側にあった『日本堂』というパン屋でずっと働いていたんだよ」

「南側の配達があるときは、北側からぐるっと回らないと行けないから、
 駅員にパンをやって構内を行かせてもらった。
 それでも配達はきつかったなぁ」

「僕が芦屋に来た頃は、沖縄出身というだけで、
 鬼畜扱いだった。だから決して、沖縄出身とは言えなかったんだ。
 帰りたかったけど、三男坊だったから帰る家もなかったしね」

  
Oさんは、ここで必ず涙されました。
きっとかなり辛い思いをされたんでしょう。
そして、続けてこのお話をされます。

「給金が少なかったから、休みの日は芦屋浜で釣りをして、
 釣った魚を売り歩いて、お小遣い稼ぎしてたんだ」

「♫ててかイワシいらんかえ~♬ってね」

ここで、必ず笑顔で「ててかイワシ」を繰り返されます。そして、

「ところで、君はどこから来たの?」

こんな感じで30分ほどお話を聴きます。

私が帰ることを告げると、

「つまんない話をごめんね。でも、また来てね」

と言って、手を差し出されます。

私は握手をして「又来月来ますから、お元気でいらしてくださいね」と帰ります。

『日本堂』のパンは、私の卒業した中学校のピロティーでも売られていました。
中学校時代、Oさんと校内か芦屋駅の近くですれ違っていたかもと思うと、
やっぱり縁ってあるんだなぁと思います。

Oさんは、2年ほど前にお亡くなりになりましたが、
私は鰯を見ると必ず、「ててかもイワシいらんかえ~」のフレーズと共に、
Oさんの涙と笑顔を思い出します。

帰りたいとおっしゃっていた故郷の沖縄で、
眠られていると良いなぁと思っています。

追記;「ててかイワシ」は手を噛むほど新鮮な鰯ということで、
 本当は「ててかむイワシ」だそうですが、
 Oさんは「ててかイワシ」と唄われていました。