私がこのブログを始めるにあたって、
どうしても書きたかった方の事を書きます。
その方は、私が傾聴ボランティアで伺う施設に、お住まいでした。
かなり認知症がすすんでいましたが、
とても大人しく、職員さんの手を煩わせることもなく、
窓際でいつも静かに車椅子に座っていらっしゃいました。
毎回こんなお話をしてくださいました。
「Oさん、こんにちは。初めまして。〇〇といいます。
今お話を聴かせて頂いてよろしいでしょうか?」
「いいですよ。君はどこから来たの?」
「ここから近い所に住んでいるんですよ」
「そう。僕はね芦屋から来たの」
「そうなんですね。ご出身はどちらですか?」
「戦後、沖縄から丁稚奉公で芦屋に来て、
芦屋駅の北側にあった『日本堂』というパン屋でずっと働いていたんだよ」
「南側の配達があるときは、北側からぐるっと回らないと行けないから、
駅員にパンをやって構内を行かせてもらった。
それでも配達はきつかったなぁ」
「僕が芦屋に来た頃は、沖縄出身というだけで、
鬼畜扱いだった。だから決して、沖縄出身とは言えなかったんだ。
帰りたかったけど、三男坊だったから帰る家もなかったしね」
Oさんは、ここで必ず涙されました。
きっとかなり辛い思いをされたんでしょう。
そして、続けてこのお話をされます。
「給金が少なかったから、休みの日は芦屋浜で釣りをして、
釣った魚を売り歩いて、お小遣い稼ぎしてたんだ」
「♫ててかもイワシいらんかえ~♬ってね」
ここで、必ず笑顔で「ててかもイワシ」を繰り返されます。そして、
「ところで、君はどこから来たの?」
こんな感じで30分ほどお話を聴きます。
私が帰ることを告げると、
「つまんない話をごめんね。でも、また来てね」
と言って、手を差し出されます。
私は握手をして「又来月来ますから、お元気でいらしてくださいね」と帰ります。
『日本堂』のパンは、私の卒業した中学校のピロティーでも売られていました。
中学校時代、Oさんと校内か芦屋駅の近くですれ違っていたかもと思うと、
やっぱり縁ってあるんだなぁと思います。
Oさんは、2年ほど前にお亡くなりになりましたが、
私は鰯を見ると必ず、「ててかもイワシいらんかえ~」のフレーズと共に、
Oさんの涙と笑顔を思い出します。
帰りたいとおっしゃっていた故郷の沖縄で、
眠られていると良いなぁと思っています。
追記;「ててかもイワシ」は手を噛むほど新鮮な鰯ということで、
本当は「ててかむイワシ」だそうですが、
Oさんは「ててかもイワシ」と唄われていました。