今日母の家で、父の自分史の中にファイルされていた、
父の若かれし写真を観ていました。
すると後ろから母が「私のアルバム観る?」と言ってきました。
私が「観て欲しい?」と聞き直すと、
「観て欲しい」
それではと、母のアルバムを2人で観ました。
2人兄弟の長男だった父と違って、
7人兄弟の真ん中の母の幼少期の写真はほとんど無く、
女学校時代〜大学時代のものが15枚ほどありました。
その後、いきなり私の七五三の写真でしたから、
その間母は子育てに忙しくて、自分の写真など撮る暇はなかったのでしょう。
ありがとうお母さん。
母の女学校の写真です。
向かって左が正しい制服で、右が戦時中の制服だそうです。
そして、これが👇寮生活時の制服⁉️だそうです。
女学校の4年5年生時代、全員宮崎市内の親元を離れ寮生活で、
パラシュートの紐をよじって一本にする作業をしていたそうです。
朝8時に作業は始まり、お昼に粗末な昼食をとり、すぐ作業再開。
母は肋膜炎の病歴があったため、3時に30分休憩をもらえたそうですが、
健康な人は5時まで休まず作業だったそうです。
そして、夕食後に2時間ほど授業を受けたそうです。
80年程前の話で、戦時下で危険な事もあったでしょう。
母も「あの頃は辛かった」と言っていますが、
全員で鵜戸神宮へ行った写真に「思ひ出の鵜戸旅行」と書かれているのを観ると、
きっと楽しい思い出もあったんだろうなぁと思います。
写真の中で私が一番興味を持ったのは、母達の浴衣生地で作った、オーバーオール型モンペ姿です。
全てお手製で各自2枚持っていたそうです。
それぞれに可愛い柄や、少し珍しい柄などが観られ、
女子達の、
「その柄いいわねー😍」
「私もそんなのがよかった😊」
なんて声が聞こえてきそうです。
それに、長ズボンタイプのモンペを膝まで上げて着ているのは、
暑かったせいもあるでしょうが、
女子高生のスカートのウエスト部分を折り曲げて着る感覚と同じなのではと、
女子はいつの時代も女子なのだと、ちょっとニンマリしてしまいます。
母のも、松葉柄ですかねぇ?黒に近い濃紺で自慢だったそうです。
たった数枚の写真ですが、
「この人は美人さんで、大分の大富豪にお嫁に行った」とか、
「この人は広島で原爆にあって、左半身大火傷受けたけど、
そのあと頑張って先生になったのよ」とか。
そして「皆さんどうしてらっしゃるかしらねえ」と
母は愛おしそうに写真を眺めていました。
今日は母の青春時代を垣間見る事ができて、楽しい昼下がりでした。
追記
母のアルバムから、この👇写真を見つけました。
母の記憶は正しかったようです。